Imagination of the Virtual / Imagination des Virtuelles

これは自治医大で人文科学・社会科学・自然科学の基礎に携る研究者が構成する会です。現在は、心の働き(感情、知性、想像力、客観化)がどのような規範化を背景とするか議論しています。

研修1報告書:バレエ・アム・ライン 

 

2019年9月20日(金)、バレエ・アム・ラインによる現代版の白鳥の湖[1]を観劇した。チャイコフスキーによる三大クラシックバレエの一つを現代的に再解釈した演目、ということで、今回の観劇で、 感情表現の近代から現代への転換を目撃することを期待していた。しかし結果から言えば、今回の公演は、私の期待に応えてはくれなかった。この報告ではその理由を考察する。

 

 まず一点目に、作品における「性愛」の表現に対する不満がある。物語は王子がその仲間達と「青春を謳歌する」場面からはじまる。ここで、王子が同性とパドゥドゥを踊ることで、その性的指向が暗示される。解説によれば、王子は、「青春を謳歌している」最中に、母親である女王に妻を娶るよう命じられることで「絶望する」のだという。しかし、この場面では、肝心の王子よりも「恋人」の絶望の方がより色濃く、また説得力を持って表現される。何せ王子は、嘆きながら森にたどり着いて、そこで観た明らかに「女性性」を持つ白鳥に簡単に心を奪われてしまうのだから当然だ。力強い白鳥の群舞の奥で、「恋人」が後ろを向いて佇んでいるのは、おそらく、その悲しみの表現、ということになるのだろう。理不尽な理由で「恋人」を失う悲しみには誰もが容易に共感することができるが故に、動かない背中には説得力がある。しかし、惜しむらくはこの「恋人」が単なる端役である、という点だ。肝心の主役には、心変わりするにあたっての葛藤が微塵もなく、共感を挟む隙がない。この理解し難い王子の感情を、それでも解釈してみれば、おそらく王子は、「ファッション」として「同性愛」を嗜んでいたけれど、そうした「遊び」を許されない我が身を嘆いていたところに、新たな情熱の対象が見つかった、という程度なのだろうと考える他にはないように思われる。そのような「ファッション」としての同性愛のあり方が受け入れられていた時代は長い。古代ギリシャでも武士の時代の日本でも、男色はたしかに一つのファッションであって、葛藤の源泉ではなかった。しかし、LGBTQ運動を経た現代において光が当てられるべきは、王子の恋人が体験するような、社会的規範がもたらす理不尽な悲しみであり、葛藤ではないのだろうか。「同性愛」を単なる作品の現代性を表す記号として消費し、それを現代の記号に成らしめた当事者の葛藤の表現を怠ることは、「現代版」と名打つ作品としては、怠慢ですらあるだろう。さらに言えば、そもそも『白鳥の湖』の主題が、白鳥の「完全な愛」と人間的「愛の限界」の間に生じる葛藤とその結果としての悲劇であることを踏まえれば、この主題の基に、王子と恋人の間に生じるべき葛藤を描くことも可能だったはずだ。にもかかわらず、王子の「同性愛的傾向」を「青春を謳歌している」ことの記号、あるいは作品の「現代性」の記号としてしか表さなかった点に、まず、本作の第一の限界がある。

 

 不満の二点目は、「美しさ」の不足である。『白鳥の湖』を三大クラシックバレエたらしめているのは、主題の悲劇性に加えて、それを表すために演出家たちが目指してきた「美しさ」がある。『白鳥』における「美しさ」は、これまで、「儚さ」によって表現されてきたように思う。目の覚めるような純白のチュチュを纏い、トウシューズで今にも倒れそうに細かなステップを踏む踊り手たちは、朝になれば消えてしまう存在の「儚さ」を表している。この儚い美しさが、物語の悲劇性を表すための不可欠の要素である。物語の悲劇性は、舞台が儚く美しければ美しいほど高められる。クラシックの演目で表現される、可憐な、けれども緊張感のある、張り詰めた美しさは、言葉にすれば「胸が張り裂けそうな」と表されるであろう、極限の心象風景の表象であるはずだ。これに対して、現代版の「白鳥の湖」では、そのような可憐さも、緊張感も表現されていなかった。では一体何が表現されていたのか。それを読み取ることは、私には最後までできなかった。

 

 問題は、作品の視覚的効果にも表れている。作中で用いられる衣装の多くは、くすんだ色のTシャツであったと記憶している。青い照明の下でくすんだ青色の衣装は、一種幻想的空間を生み出すといえば生み出すけれども、一方で、振り付けが幻想さを目指していないために、群舞では、うっかり本作が、色味の違う「ウエストサイドストーリー」かのように見えるほどだった。表現されているものが、人生のリアルな儘ならなさなのだとしたら、再び、なんと陳腐な、と思わざるを得ない。観客がバレエに求めるのは、リアルな人生の表象ではなくて、誰もが持て余しがちな感情の諸要素の「美しい表現」なのではないのだろうか。だとすれば、主役であるらしい王子には、やはりもっと葛藤の要素を持たせるべきだったのではないだろうか。たとえば、ミュージカル『レント』[2]の「エンジェル」のような王子を期待したいところなのだけれど。

 

 この「美しさの欠如」が不満となるのは、しかし、観客である私の側に、作品を受容する回路がないからでもある。クラシックバレエに比較的親しんできた現代の観客である私には、『白鳥の湖』に期待することや、「バレエにおける表現」に期待することがある。バレエ・アム・ラインの『白鳥』は、そうした「近代的期待」に応えない。けれど、「現代の」バレエにとってそうした「近代的期待」は、 乗り越えるべき古い規範であって、そのような期待に応えないからこそ、作品は「現代的」であり得るとも言える。そのように思いを巡らせることは可能なのだけれども、近代の規範に飼いならされた視覚と身体ではその「現代性」を肯定的に感知することができない。これは、あらゆる「現代的な」表象と観客との間に生じるジレンマであるだろう。

 

 とは言え、いつの時代であっても「新しい表象」は、観客の「飼いならされた」感性に衝撃を与えつつ、既存の規範を乗り越えさせることに成功することで受容されてきたはずで、それが「芸術の発展」の要でもあるのではないだろうか。ここでは、その成功の要件が何であるのかを検討することは避けたいけれども、既存の規範を「圧倒する」何かではあるだろう。それを、バレエ・アム・ラインに見出すことが、残念ながらできなかった。

 

 ただし、一つ肯定できる点を挙げておくと、 気高く力強い白鳥のリアルさは目を引いた。くすんだ青い舞台に浮かび上がる、白い羽根の表現には、『白鳥』の伝統に現代的リアリズムが加味され、女性像が、「理想としての可憐さ」から「リアルな力強さ」へと変容した時代を反映しており魅力があった。本作が、 もしも女性性に可憐さや儚さといった弱さを象徴させるのをやめた途端にロマンチックな恋愛物語が成り立たなくなる証左なのだとしたら、これは、近代の産物である「ロマンチック・ラブ[3]」を再考する現代的機運を示す作品と言えるのかもしれない。それを「つまらない」と思うのは、単に古い近代的身体の持ち主であることを明かすことになるだけ、という可能性もあるので、気をつけたい。

 

                        (2019年9月26日 渡部麻衣子)

 

[1] マーティン・シュレップアー演出版。2018年6月にドイツで初演。日本では東京で9月20、21日、兵庫で9月28日に公演された。

[2] ジョナサン・ラーソン作詞・作曲・脚本によるニューヨークを舞台とする青春群像劇ミュージカル。1996年にオフブロードウェイで初演された。「エンジェル」は、HIV/AIDSに罹患した同性愛者の男性で、登場する若者たちのリーダー的存在。

[3] 「ロマンチック・ラブ」は、恋愛と結婚を結びつけるイデオロギーとして、18-19世紀頃に西欧社会に誕生した。(ノッター 2007; 谷本・渡邊2016 他)