Imagination of the Virtual / Imagination des Virtuelles

これは自治医大で人文科学・社会科学・自然科学の基礎に携る研究者が構成する会です。現在は、心の働き(感情、知性、想像力、客観化)がどのような規範化を背景とするか議論しています。

研修3報告書:五雲会

 

研修3報告書:五雲会

 

 2019年10月19日土曜日、東京都文京区の宝生能楽堂にて五雲会による演能を鑑賞した。演目は次の通りで、能の三作品は代表的なものである(便宜上、シテとワキのみ記入する)。

 

 能「敦盛」(シテ辰巳和磨、ワキ野口能弘)

 狂言「御茶の水」(大蔵基誠、大蔵彌右衞門、大蔵教義)

 能「井筒」(シテ大友順、ワキ福王和幸)

 能「葵上」(シテ澤田宏司、ワキ大日方寛)

 

概要

 「敦盛」は『平家物語』の中でも名高い「敦盛最後」に世阿弥が着想を得て作ったものである。「敦盛最後」の章は現代の日本でも教科書に収録され、海外の日本語学科でも古典日本語を学ぶ際にはよく取り上げられる。前近代では、現代以上に知らないもののなかった逸話である。源氏の武将、熊谷次郎直実は騎乗の若武者を落馬するまで追い詰めたところ、それが自身の子と同じくらいの若者であることに気づき逃がそうとする。だが背後に迫る自軍の勢いを考えれば、敦盛の逃げきる可能性はなく、死後の供養を約束して手にかけざるをえなかった。直実は法然の弟子となり、法名は蓮生という。この後日談が世阿弥によって想を新たに語り出される。たがいは仇同士ではなく死後は同一の蓮台に生を受ける者同士であり(法名の蓮生が念頭にある。現世では蓮の葉に分かれてある露のように共に過ごすことはかなわないが、来世では同じ蓮に生まれ変わろうと約束する表現が『源氏物語』にあるように、蓮の台は新たな生の場という意味で用いられる)、この生の新たな段階で両者はもはや敵同士という関係性を超克しており、敦盛は蓮生に弔いを願って物語は終わる。対立するもの同士の本来的な不二一元性が「蓮台」として、その生のあり方が「蓮生」として念頭にあり、それが物語の枠組み、基幹、思想的背景と言いうる。

 「井筒」は『伊勢物語』「筒井筒」の章に着想を得て世阿弥が作ったとされ、世阿弥の作としてだけでなく能そのものの代表と位置づけられる。『伊勢物語』原典では次の通りである。井戸を囲う竹垣のそばで丈比べをして遊ぶ幼い男女が、長じて相見えるを恥ずかしんで会わないものの、互いに忘れられない。女は縁談を断り続けていると、男から歌が届く。契りを交わすも男は別の女の元に通うようになる。その中にあって妻となった女は夜を行く夫の安全を願うばかりであることを当の夫は知ることになり、足繁く通うことを控え始める(改心はしないように思われる)。男は、素材が『伊勢物語』であるから、当然ながらその名目上の主人公、在原業平であるが、この段で主題となる女は紀有常の娘であり、いわばここでの主人公とも言える。実際、謡曲は女に焦点を当てる。業平が関わる物語では通常、後場において後シテが陰陽不二の現れとして描き出されるが、本作でも男性演者が扮するところの「女」が男として(男装して)再度顕現する。男女という〈二個の存在の融即〉とも呼びうるこの〈現成〉は「見見えし」においても「見」の主客合一として、さらには「面影」において昔と今という時間構成に先立つ様態が示される。そこでは、存在(色)ではなく「匂ひ」という脱質料的でありつつ感覚的な、つまり世界構成以前(「夢」)が現象する(「色なうて…残りて在原」において、「ない」と名残の「残り」と「あり」が、「ほのぼのと明く」、すなわち融即しつつ顕現すると捉えうる)。

 「葵上」は世阿弥以前からあったものに世阿弥が手を加えたと考えられる。主題は『源氏物語』「葵」帖を中心とした『源氏物語』における葵上をめぐる物語に想を得ている。光源氏の正妻は葵上であり、この女性の名がタイトルである。この物語は原典では次の通りのである。賀茂祭葵祭)で葵上の家来と光源氏の愛人六条御息所の家来同士が牛車の場所争いをする。その時、六条御息所は、車が壊されるなどの恥辱的な扱いを受ける。その頃から、葵上は病床に臥せり始める。それは、源氏の子を葵上が身ごもっており、なおかつ祭りの際には公衆の面前で恥をかかせたことが原因となって、源氏の心の離れつつあった御息所が睡眠中に知らずに生霊となって葵上を呪うせいであった。葵上への呪いはその死によって終わる。謡曲では、この葵上をタイトルに入れて主人公とすると見せかけるも、真の主人公は六条御息所、あるいはその〈怨念〉である。実際、葵上の存在は舞台の最前に敷かれた着物によって示唆的に暗示されるのみで、その大胆な省略の演出に、その現代演劇的表現方法に、能の特徴が表れているとも言えよう。しかし『源氏物語』自体においても葵上の短歌が引かれないなど、もの言わぬ存在としての葵上が能舞台ではもの言わぬ物として表象されているとも、またひたすらに受動的な呪いの対象として表されているとも取れる。ここで葵上は前シテの恨み辛みを顕現させ、後シテへと媒介し、その「心を和らげ」るという変容をもたらす触媒として終始無言で横たわっているに過ぎない。

 

鑑賞

 吹田はそれぞれの作品について次のような問題を見いだしている。「敦盛」においては前シテが草刈りの男たちに紛れて現れる演出に関して、それは霊の顕現様態ではなく、別人への憑依なのか判然とさせない。言い換えれば、前シテと後シテ、前段と後段との位相の変転、形象化の違いについて考察の必要性を指摘している。謡曲が前半と後半という構造を持ち、それが現象性の相違である点を下で論じることにする。「井筒」については、宝生会のパンフレットに「永遠の夫婦の愛情を美しく描いた名作」とあることに触れ、そのような近代的な感情が主題の作品であるとみなすことは、前近代を後代の枠組みや規範に回収することになりかねない点を指摘する。

 確かに永遠の愛はキリスト教的であり、そういった愛が主題なら、一方で「神の視点」を投入するのと同じように「神の愛」を実現できるかのような前提を無批判に行っている点はヒュブリスと見なさざるをえず、もう一方でそれは仏教的(正確には、神仏習合的)世界観に真っ向から反することにもなりかねない。なぜなら、仏教では永遠性は何より否定されるであろうから。そして、神仏習合的世界観において「愛」は我々が思い浮かべるような意味内容を持ってはいない。そもそも「愛」は近代的に獲得された規範・形式・概念である。我々の考える「愛」の観念を無批判に用いて、それを過去の作品に投影することは理解を歪める。アナクロニズムに基づく理解を指摘・回避することは、作品の鑑賞・鑑賞にとって最も重要な基軸になる。

 また、シテの多角的・多層的アイデンティティについては、イメージが多層的に分散するところに眼目があると吹田は指摘している。というのも、シテは霊であることを仄めかして消えて、男女融合的形象化の後シテとして現れるが、それは物語全体が終わってみれば、女が僧の夢に夫の姿で現れて、井戸を覗いて夫の姿を見るという何重もの形象化であるからだ。それは、私(これ)は何か・誰かのようなアイデンティティ意識の非正当性を示唆し、多重多層化する像に本来性を見いだすことであろう。吹田は、ミュシャ作品の鑑賞に際しても、「曼荼羅化としての図像化」、そこにおける「始点を明かさぬ線の無限運動的反復性」(「無限の変化」という意味で)、「周辺に拡散する脱中心的なエネルギー」、「アナーキーな眩暈の場の成立」を指摘している。その観点からすれば、能にもまた「イメージの多層的分散」を見いだす観点を導入できよう。そのとき能が提示するものとは、その都度の体験においては体験主体が「脱中心的」で「アナーキー」でありつつ、「曼荼羅化としての図像化」を行う「眩暈の場」を具現している生死の区分を超えた運動ではなかろうか。

 「葵上」はひたすらの祈祷で成仏する場面の長さ特徴的であることが指摘される。その長さは、演劇を見て楽しむものというものから遠ざける要素になりかねないものである。従って、その扱い方に関して、流派や演者によって変様があるのか、今後、比較検討する余地のあることを指摘している。この祈祷部分は巫女のほか修験道で利用される仏教経典からの引用が呪文として用いられるが、これは次に引く渡部の指摘するように、前近代の人間であろうと現代人であろうと、鑑賞者に対して意味化、意味構成、理解を拒むことを目的とした部分でしかない。これは有意味的な言語表現としての台詞ではなく、意味をなさないことによって、無意味であることによって、言語的記号性とは別の水準において意味をなすことが目指されていると言えよう。

 渡部は、西洋の音楽芸術が音とリズムの分節化から成り、その組み合わせの巧みさが音楽の優劣となるように思われるのに対して、(最近は鼓や笛の自己主張の強さが問題視されることを紹介し、このような感覚が現代の能ならではの感覚かもしれないと別の可能性も指摘しつつ)能では緩急や高低や柔剛といった対比の組み合わせの妙が際立っていると捉える。そして、今回の舞台を次のように記述する。すなわち、柔らかく太い声と鼓とが交互に生み出していく音に流れに、高い笛の音が切り込んでいく音の世界と物語を舞う身体の世界とが融合しながら作り上げていく感情世界に鑑賞者の感覚を没入させていく時、能面は表象される感情世界と鑑賞者の没入の接面のように表情として感情を映し出して、没入世界と現実界の境界を朧げにしていくようであった、と。そして、渡部は今回の能鑑賞を一つの音楽体験として、分節化されない刺激の総体を感知する没入体験であると表現し、音楽体験と物語体験との両面から見る。というのも、能では物語を楽しむべきことが第一義的であると言えるのか、少なくとも現代人の場合は古典語を母語として直接無媒介的に意味理解しない以上、すなわち物語の解説を読まなければ演劇としての理解が成立しない以上、能は音楽体験になり、その体験はトランス状態に近づかざるをえないのではないかと問い直しうるからである、という。特に今回鑑賞した宝生流は様式美で知られるのであれば、その具象的なトランス状態とはいかなるものかと問うことになる。従って、このような具象的トランス状態における物語の展開とは鑑賞者にとっていかなるものかという問いを立てることが可能である。

 音楽体験をトランス状態と言い換えることは、人類学的知見からも正しいと言えるのではないだろうか。また、現代人の場合との留保をつけるが、確かに前近代にあっては、有名な謡曲であればテクストを全て覚えているか、ある程度内容を知っていることが素養であったとはいえ、呟くような、あるいは囁くような地謡の声は聞き取りにくいし、面を通して聴くことになるシテの謡も明瞭とは言い難い。何よりも重要なのは、視覚に偏重しているのが近代であって、前近代では聴覚により偏重していることは常々指摘されていることである。

 吹田が「アナーキーな眩暈の場の成立」と呼ぶものが、ここで渡部によって「トランス状態」と呼ばれていると言えよう。それは謡曲が描くしての状態であるし、演技が成功しているならばそれは演者の状態であるし、鑑賞者が精確に受容できているならば、鑑賞者の状態でもあるはずのものである。従って、トランス状態とは、己を観点の中心に置かず絶えず「周辺に拡散する脱中心的なエネルギー」として自らをアナーキー化することに成功していなければならない。これは曼荼羅的世界表象なり体験表象なりを、静態的に捉えるべきではないこと、力動的にとらえねばならないことの別の表現となるように思われる。さらに吹田と渡部によって等しくかつ精確に指摘されていることのもう一つに、有意味でない言語的記号による二項対立的概念の水準とは異なる段階(後場、後シテ)での意味性の開示がある。この意味性の段階では、一義性(二項対立的概念、通常の記号的意味作用)は働かず、意味は多義性へと還元される。従って、意味の作りだす像もまた多義化すなわち多重多層化すると言えよう。

 

 能狂言は、しばしば古代ギリシアの演劇形式に対応づけされる。それについては以下の理由が大きいと思われる。まず形式上、古代のアテナイにおける演劇スタイルは三つの悲劇と一つの喜劇(滑稽な劇、サテュロス劇)から構成されるので、例えば今回の五雲会の構成に見るように三つの悲劇(能)と一つの喜劇(狂言)という組み合わせに対応しているように見える。しかし、ギリシアの演劇が実際には一度きりの上演であるのに対して、能狂言は、改変されつつも、同じ作品が繰り返し上演され得た点で、古代ギリシアと大きく異なると思われる(ただし、江戸時代名での記録を見ると、一度きりの上演が極めて一般的であったようであり、タイトルしか知られておらず台本が現存しない作品があったようである)。

 また内容上は次の点が着目される。古代ギリシアの悲劇とその影響を受けたヨーロッパの悲劇では、アリストテレスが悲劇の意義として論じたカタルシスが重要視される。カタルシスは通常、観客の精神的浄化の意味で理解される。能でも救われなかった魂の救済が物語の主題であることがほとんどであり、観客のカタルシスか否かを別にすれば、またカタルシスの具体を問わなければ、その点での類比は可能である。ただし、古代ギリシアでは成年男子でなければ市民とはみなされず、女性の道具化・奴隷化は甚だしい(これは中世日本でも、あるいは現代になるまで変わらないであろう)。従って、少なくともカタルシスという観点から謡曲を考察するなら、そこに描かれる女性の成仏が特異な系譜を形成していることが見出される。つまり、能では鑑賞者のカタルシスではなく、作品が描き出す女性のカタルシスが主眼となろう。ただし、能の鑑賞者もそのカタルシスの場となるのであれば、謡曲を媒介あるいは契機としてカタルシスが実現するというよりも、むしろ男性性・女性性の無差異化が実現していることの方が能にとっては要であるようにすら思われる。というのも、あらゆるものの成仏問いう観念を背景とする謡曲であれば、単にカタルシスが主題になるのではなく、その前段階として男性性・女性性の無差異化が主題化されねばならないからである。それを経ねばカタルシスには意義がないであろう。

 アリストテレスの『詩学』では喜劇を扱う部分が現存せず、その悲劇に対してどう位置付けられているのか不明であるだけでなく、古代ギリシアの喜劇作品も散逸してわずかしか知ることができない。これに対して中世ヨーロッパやルネサンス以降の道化についてはよく知られ、国王や貴族に支え楽しませるだけでなく、主君を批判する発言が許される立場にあった。これを自由な発言権と呼ぶのは行き過ぎではあろうが、権力の相対化という働きを見ることができるのは事実である。これに比して、狂言にも権力の相対化が見出され、作品「御茶の水」(大蔵流の曲名で、和泉流では「水汲」)も例外ではない。なお、将軍家光のお茶用の水として献上されたことに由来する地名「御茶の水」(表記法は複数あり)の泉跡は、今回の上演のあった宝生能楽堂の南東200メートルのあたりに位置する点で、名称上の一致(偶然だとしても)ではあるが、言葉の掛け合わせを重要視する文藝に臨んでは、これも趣向と言えよう。

 狂言「御茶の水」は次のような筋の曲である。野中へ清水を汲みに行くよう住持(住職)に頼まれた新発意(しんぼち;出家間もない少年)はその頼みを拒む。その代わりに門前の娘いちゃ(若い女通名)が水汲みに行く。それを追って、新発意は野中まで来てしまう。すると娘は小歌(室町時代に流行した歌謡)を歌っている。そこでかねてより想いを寄せていた新発意は歌で思いを伝えようとし、謡い交わしあいつつ水を汲み、戯れ興じる。すると娘の帰りが遅いことを案じて迎えにきた住持に新発意は叱責を受けるが、逆に住持と取っ組み合いになり、最終的に娘も加勢して、二人は住持から逃げる。ストーリーとしては小歌の謡い交わしあいを通して思いを通わせ合うことに主眼がある。

 ここでもまた、絶えず「周辺に拡散する脱中心的なエネルギー」として権力を中心をアナーキー化し脱中心化する無限の運動が、個別的具体例として描き出されている。しかも、能と同じく対話劇である狂言に、あるいは能狂言という組み合わせの演劇に、我々は〈脱中心的なエネルギー〉としての〈ポリフォニー〉を聞き取ることができる構造になっている。異質なるものどもの様々なる声は能という舞台藝術あるいは謡曲テクストのうちに具現化され、異質なるもの同士の対話、あるいは相互理解、あるいは異質性の転換を我々は見ることができる。狂言は、このようなポリフォニー狂言のうちに具現化されるというより、狂言そのものの存在によって、それが演じられるということ、あらゆる権力で組み立てあげられている〈機構〉にそのような笑いが挿入されることによって、つまり狂言がメタレベルに位置することによって、人が自身の存在を具体化しているあらゆる権力機構への批評になっていると考えるべきであるように思われる。

 

考察

 私は今回の能楽鑑賞を多重多層化する現象性についての考察(成仏の現象学)として展開しておきたい。能に見られる神仏習合は因明的論理学や法相的認識論のように思索を明示的に展開してはいない。神仏習合は神学書・理論書の体裁をとった書物を持ちながらも、そのような論書は、老荘的・道教的思索のような組織立った世界観を提示しているものではない。儒学朱子学的議論のような緻密な態度でもなく、プラトン主義やキリスト教主義の哲学のように論証することもない。もし神仏習合が因果論的な関係性を否定するとして、それは因明や法相における議論をよそに言葉遊びに興じている文藝であるに過ぎず、そこには論証と異なる思索の精神が息づいていると言うことはできないのだろうか。神仏習合が考える因果はそのようなものではなく、仮にコスモス的な全体性といったものがプラトン主義的哲学やキリスト教主義的哲学の理念として君臨すると考えるなら、あるいはそういった両者のような伝統的な世界観を世俗化したものとしての近代主義的な思考と捉えて良いなら、ここに見られるのは典型的に前近代的であるかもしれない思考、近代性とは相容れない思惟であると言えるのだろうか。私の考えでは、そのような前概念化的な「思考」あるいはむしろ直観が、能では〈成仏〉の形象性に見出されると言える。この点をもう少し追究しておきたい。

 線的な連鎖の集まりとしてのコスモスといったメタファーに合わせて例えるなら、それは微細な無数の線に分岐するアラベスク状の運動と表現してもよいだろう。能狂言という組み合わせの演劇は、むろん政治的制約から完全に自由ではありえないながらも、あらゆる〈機構〉において中心・核心が虚構であることを露呈させ、ある種の傾斜、傾き、偏りの系列を示すように思われる。中心をもった〈機構〉とは、言い換えれば〈閉じた円環〉、あるいは〈回帰〉といった構造なり運動なりである。これは謡曲の末尾に置かれる「帰りけれ」(あるいは「失せにけれ」)と同一視されてはならない。なぜなら、謡曲の「帰りけれ」(成仏)は同一性への一致を表明するものではなく、変容の現成を示すものであるからだ。しかも、これは一対一対応の因果関係の否定、原因と結果の連鎖網のように重い描かれる全体の否定、コスモス的な組織化の否定である。すなわち、「微細な無数の線に分岐するアラベスク状の運動」として形容されうる思考の運動は、コスモスの否定としてはアナーキーであるが、謡曲に見出され舞台上で身体化される感覚的(美的)なものとしては無秩序ではない。それは「帰りけれ」(成仏)へと向かう秩序・構造、あるいは目的論的運動をもった思考に思われる。

 この思考・思索・思惟の運動を巻き起こす起点にあるのは、原ヒュレーとその顕現・非顕現をめぐる直観であると言える。そこには、いまだ意味へと回収されてはいない意味の塊のようなものの現れがある。モルフェー(従ってそれと対称的なヒュレー)は構成する側に属するものでしかない志向性の水準にある。この直観における現れは、そのようなモルフェー(構成する側)に属しえない水準における現象である。そこに現れるのは、自らとは異なるものの現象であり、その現象の場たる直観、謡曲の呈示するこの直観は、それゆえむしろ〈原〉を付加することによって時間性が加味されかねないことすら回避すべき水準でなされている。ここに顕となる形は、いかに捉えられるのか。その顕現の仕組みを考えることは、謡曲に見られる思索の精神を語ることになると言えるように思われる。構成する働きとは異なる働きを、その働きに則って(志向性を外挿することなく)捉えるということは、同一性のうちにおける差異化を見極めるということであろう。謡曲においては、このような内在的な自己差異化の働きを自己形象化として捉えることができるのではなかろうか。

 シテは世界を開示せず、むしろ世界から外れたモノを開示する(前シテ、前場)。むしろ、与えられた世界の現象性を開くのがワキの役割である。まずワキは与えられた世界という構成を再度ときほぐす仕方で理解する働きとして登場する。つまり〈与えられたもの〉をその〈与えられ方を成り立たしめている前提・条件(志向性)〉に遡るのがワキである。しかし〈与えられたもの〉を〈与えられたもの〉になさしめる構成に沿って理解することは、〈わかっていること〉を〈わかっている通り〉に分解したり組み立て直したりする動作である(そういう意味で、〈再度ときほぐす〉としか言いようがないと思われる)。それはテンプレート式認識であって、あらかじめ与えられた既知の答えを目指して練習問題を解く訓練と変わらず、未知なるもの(シテ)を了解することにはならない。

 ところが、ここでワキが出会うシテとは世界をはみ出すモノ、ワキの構成する世界の秩序、コスモスを解体する現象である。能は一見すると前シテとしての現れがワキを媒介として変容してゆくように思われるが、シテの変容は実際には自己変容の場としていること、自己を変容の根拠としていること、変転の場としていることを指し示している。そのような自己触発的な変化の意味で捉えられるべき自己差異化は、前シテ・後シテという形で提示されている。自己触発的な変化であることは、後シテの顕現においてワキが語らず問わず動かずただ見守るだけであることが示唆すると言えよう。シテが自己の本来性を開示するという仕方で自己を差異化するとき、ワキの沈黙(驚きであり、黙認であり、そのような世界了解であり、構成が回避されている)は、世界の秩序から外れたモノとの出会いによってワキも変容しうることを示唆しているであろう。

 謡曲においてシテが前場後場とで変容するかぎり、前シテが志向性分析による世界構成の解明であるのに対して、後シテはそのようなテンプレート式認識、用意された路線をたどってあらかじめ設定された正解に至る常識を峻拒する働きとして登場してくる。ここで後シテは仏となるが、それは絶対者となって、あるいは絶対者へと没入、帰入してしまう意味での神秘主義ではないと思われる。そのような理解の神秘主義では、主客の無化がそのまま全体性の顕現、全体直観になっている。これに対して、謡曲は志向的構成による世界とは異なった現象性の開示を異他的なるものの自己差異化として描くのであって、全体性の直観とは別の水準で現象の開示を解く。この開示は、ワキなしに、無媒介に本来的な姿の晒される目覚めることと言える。それは開示自体の生起がシテの自己差異化であることと言い換えられよう。そが無媒介であるのはワキの志向性(構成する側)に属しえない水準で生起するからである。この無媒介性、本来性は、ワキの無言・無動作の裏返しとして示されている。

 このようにして、シテは自己を前シテから後シテへと内在的に差異化、二重化する。このとき後シテはいかなる姿・形象として描き出されるであろうか。通常、それは転変する情念の像であろう。情念は、悲しみ、苦しみ、憎み、恨みから、その解放へと転じるが、この解放はただの喜びではありえない。なぜなら、そのような喜びは強い否定的な情念を前提、基礎、根拠としなければ成り立たない心の働きであるからだ。これに対して、後シテが成仏として提示するのは、全体性のコスモス的な組織化でなはく、微細で無数にある個別的生がそれぞれの営みの分岐点においてその時々に躍動し脈動するその都度の個別的な力動性である。そういった生の働きの具体的な出来事は一回的であり、その個々別々の偏重において生は個別の具体的な悲しみと喜びとを合わせもつ。謡曲がただひたすらに陽気な生命讃歌ではありえず、むしろ悲哀と幸福とが矛盾せずに一つの生を形作ることへの眼差し(後場でのワキの意義)を歌い上げる抒情詩であることの理由が、ここにあると言えよう。

 能楽鑑賞において、つまり仏が現象してゆくさまにおいて、情念の変容において、我々は当事者たちの自己差異化を見ることになる。そこでは当事者の自己像が多重化し、多層化し、微細な情緒の変化をその都度、形象化している。謡曲という物語あるいは抒情詩において、ドラマの進行は物語の筋として一本性を描いているように見えるが、そこここで多様なイマージュを分岐させている。しかも、その分岐したイマージュは同一なるものへの一致によって一つの像に収斂するのではなく、一致しない特性を重ね合わせる像として現れる。演技者は、演技が成功しているのであれば、このようなイマージュを身体化するものとして舞台に立っていると言えるのではなかろうか。

2019年11月6日 小野純一