Imagination of the Virtual / Imagination des Virtuelles

これは自治医大で人文科学・社会科学・自然科学の基礎に携る研究者が構成する会です。現在は、心の働き(感情、知性、想像力、客観化)がどのような規範化を背景とするか議論しています。

研究報告5:「蜷川実花 現実と虚構のあいだ」於 宇都宮美術館

蜷川実花。おそらく、今日本で一番その作品を目にすることの多い写真家と言って差し支えないはずだ。なにしろ、週刊雑誌の表紙をはじめとする様々な大衆向けの媒体を発表の場としている。蜷川よりも多くの発表媒体を持ったアーティストは、世界に目を向けてもそういないのではないか。その意味で、蜷川は、世界で最も成功した「ポップアーティスト」の一人に数えることができる。このことは、彼女の活動をある程度追えば、自ずと知れる事実だ。そしてこの事実が、私が彼女の作品を「真剣な」鑑賞の対象から除外してしまう理由となってきた。研究という名目がなければ、おそらく美術館にまで足を運ぶことはなかっただろう。たとえば、彼女の被写体には大いに関心があるにしても、それはまあ雑誌で鑑賞すればよいので。。。

 

しかし今回、「研究」のために、この事前の情報があり過ぎる作家、蜷川の作品をまとまって観る機会を得て、私は彼女が「現代アート」の意味を体現する、優れた作家と呼べるのではないかと思うに至った。

 

彼女を「現代アーティスト」たらしめている、一番の要素は、彼女自身が彼女の映し出す「現代」の中ーしかもその中心ーに「生きている」ということがある。三つの商業的にも成功した映画を監督し、大衆メディアを表現の場とする若い俳優やモデルや歌手たちが、その被写体となることを熱望する写真家でありながら、自身も、SNSを通じてその個性的なファッションや生活を発信し、多くのファン(フォロワー)を獲得している。彼女は、常に撮る側に徹するタイプの写真家ではなくて、積極的に撮られる側に立つタイプの写真家である。しかも、一世代前の大衆写真家の代表であるアラーキーのように、「写真家」としてであれば「撮られることもできた」写真家とは違って、彼女は、自分自身を、彼女の被写体と同様に、消費されるイメージの対象として発信している。蜷川は、SNSによって、イメージを消費する側と消費される側の間にあった境界線が霧消された世界を象徴する、極めて「現代的」な立ち位置に自らを置いているのだ。

人がそうした立ち位置に立つこと、あるいは、現代の若者が、承認と排除の政治という「人間関係」の中で、そうした立ち位置に身を置かざるを得なくされていることに対する批判は多くある。だから、蜷川が、進んでその立ち位置を引き受け、そうした現代のイメージの生態系を再生産していることを、同様の観点から批判することもできるかもしれない。しかし、今回『虚構と現実のあいだに』と題された企画展で発表された作品群を観れば、そのような批判が単純に過ぎることがわかるだろう。

 

この文脈で、まず特に注目したいのは、「self portraits」と題された作品群である。解説によれば、蜷川は、「セルフポートレート」でデビューしたという。したがってこれは、彼女のデビュー以来のライフワークである。その題名通り、蜷川は自らにカメラを向けている。私は、この作品で、彼女が、自らの性(女性性)にレンズを向けているようにみえることに関心を持った。ハイヒールを履いた足元や、上半身のシルエットには、まちがいなく「女性性」が象徴されている。崩れかかった濃い化粧や、隠されたドアや、ベッドに横たわる自分を上から捉えた像や、涙もまた、女性を生きることについての表象として受け止めることができる。思えば、企画展の入り口近くに、濃い口紅を塗った唇を撮った一連の作品があった。「口紅を塗った唇」は、「現実と虚構のあいだ」の象徴であり、そこには、「女性の性」が顕れている。self portraitsは、そうした「現実と虚構のあいだ」に在る「女性の性」を生きる自らの姿を捉えているように思われる。「痛みを伴う」、「崩れそうな」、「孤独な」という言葉が浮かぶが、蜷川が、全てを開示してなどいないことも、また、作品には織り込み済みだ。それでも、尚、SNSの彼女とは対象的な姿には、「現実と虚構のあいだを消費されながら生きている」、という「現実」に、「誠実」にレンズを向けようとしていることを信じさせる力がある。その「痛み」すら既に、消費され尽くされた対象だとしても尚。

 

そして、彼女が「現実と虚構のあいだ」を生きることの「痛み」を身体的に知る人であることを踏まえると、「self portraits」の前に置かれた「portraits of the time」と題された、いわゆる「芸能人」を主たる被写体とする一連の作品群が、単なる客集めを目的としたものではないように思われてくる。

 

蜷川を前に、若い俳優やモデルが「懸命に」ポーズを取っている。まとめて眺めると、ポーズにも上手い下手のあることがわかってくるが、それ以上に、「ポーズ」が、「現実と虚構のあいだ」に境界線を引く手段である、ということがわかる。ポーズをとる彼らの姿は「虚構」である。けれども、人間である以上、彼らは、蜷川同様に「現実」を生きている。しかもそれは、時に過酷であることを、鑑賞者は情報として知っている。たとえば、被写体の一人として登場する沢尻エリカのように。「ポーズ」は、その「過酷さ」を打ち消す演技であり、被写体を、蜷川の作り上げる「現実と虚構のあいだ」に配置し、「美しい」鑑賞の対象に仕立てる。

 

ところで、写真家と被写体の間には、常に搾取の構造があるし、特に、被写体に「消費される身体的美」を象徴させる行為は、暴力性すら孕む。この暴力性は、写真家が男性で、撮られる側が女性である場合に、最もわかりやすく顕在化するが、同性間でもまた、性別が逆転しても生じ得る。言うまでもなく、性暴力と似ている。しかし、蜷川の場合には、自身が、「現実と虚構のあいだ」を生きることの痛みを身体的に知っている、ということのために、被写体との間の対等な関係を結んでいることを想像させる。彼女自身が、そのような「対等な関係」を可能とする被写体を好んでいる節がある。あるインタビューで、蜷川は、(被写体として)「やんちゃで、品のある人が好き」だと言っている。彼女が被写体に求めるのは「従順さ」ではない。従順さを求めない写真家の前で、被写体は、言われるがままでではなく、自ら「懸命に」「ポーズをとる」ことを求められるのではないか。「現実と虚構のあいだ」に立つことを引き受ける強さを、被写体は求められていて、だから、彼女の撮るポートレートでは、ほとんど誰もが「必死」という感を受けるのかもしれない。そして、蜷川はその姿を「美しく」撮る。私はそれを、「優しい」と思う。

 

蜷川の立ち位置が再生産する「構造」を批判することはたやすい。けれども、そうした批判は、そうした構造の外に生きることのできる、ある種の特権からの批判でしかない。そうした構造の中に生きることを自ら引き受け、そうした構造の中に生きざるを得ない人と共に、その姿を「ポーズ」によって「美しさ」へと転換する作品群には、安易な批判よりもずっと強靭な覚悟を見て取ることができる。その「現代」への態度もまた、「現代的」であり、その覚悟に根ざす「優しさ」と私が感じる写真家としての彼女姿勢は、被写体だけでなく、同じ構造の中に生きざるを得ない鑑賞者をも、勇気付け得るように私は思う。

 

蜷川は、「蜷川色」と呼べるであろう独特の色彩美を様式としながら、おそらくは前世代の写真家とは異なる、現代的で対等な関係性を被写体と取り結び、「現代に生きる」ということを捉えることに成功している。そして、自分自身の父親の死をテーマとする「うつくしい日々」をはじめとするその他の作品も含めて、「現代」を「現在」において捉えることを通して、「儚さ」、「美しさ」、といった「生きる」ことに伴う普遍的情感を表し得てもいる。私たちの「生」は、昔も今も「現実と虚構のあいだ」にあるものだ。

 

SNSに疲れ、安楽死を夢見、生まれることの意義すら疑う現代に生きる私たちに、「生きる」ということを、その過酷さを知りながら、「美しく」見せつける蜷川美花。彼女は、もはや単に商業的に成功したポップアーティストではなくて、優れた「現代アーティスト」、いやもしかして、非常に優れた芸術家なのでは、とすら思うのだけれど、どうなのだろうか。

2019年12月13日

(文責:渡部麻衣子)