Imagination of the Virtual / Imagination des Virtuelles

これは自治医大で人文科学・社会科学・自然科学の基礎に携る研究者が構成する会です。現在は、心の働き(感情、知性、想像力、客観化)がどのような規範化を背景とするか議論しています。

研修2報告書:みんなのミュシャ展

 2019年9月20日(金)、Bunkamura ザ・ミュージアムにて「みんなのミュシャ」展を観覧した[1]。国内におけるミュシャの回顧展は二年前に行われたばかりであり、空前のミュシャ・ブームといった様相を呈している。前回は2017年に国立新美術館で開催され、晩年の連作《スラブ叙事詩》(1912-1926年)が目玉であった。横が8メートルを超える超大型の油彩画が全20点揃い、会場にひしめく観客の群れにはよく釣り合った視覚体験を提供していたように思う。これらはプラハ市のために制作され、「古代から近代に至るスラヴ民族の苦難と栄光の歴史」[2]を描いているということで、民族主義愛郷心に焦点が当てられていた。

 

 対して今回のミュシャ展では「みんなのミュシャ」と題されていることからもわかるように、ミュシャの手になる図像がヨーロッパを越え、各地で大衆的に受容されたことがテーマ化されていた[3]。副題は「ミュシャからマンガへ —— 線の魔術」である。展示の前半ではミュシャが最も本領を発揮したグラフィック・アート、つまりポスターや挿絵等の作品が多数集められていた。後半では、そうしたミュシャの意匠を取り入れたことが明らかな、主に1960年代から70年代にかけての英米系ロック音楽のレコード・ジャケットが並んでいた。その後日本という文脈が締め括りとして登場し、1900年代に藤島武二(1867-1943年)らによってデザインされた文芸誌の表紙がその嚆矢として紹介されていた。その後は再びミュシャの作品が並んでいたため、日本のミュシャ受容における空白期間をマスキングしたようにも思えたが、最後には、ミュシャからの影響を語る作家の言葉とともに日本の漫画やイラストが多数展示され、「ミュシャからマンガへ」の道を示そうとするこの企画の狙いが、説得力はともあれよく理解された。展示されていたのは、1970年代から90年代にかけて制作された山岸涼子ら女性の漫画家によるいわゆる少女漫画や、天野喜孝ら男性イラストレーターによる作品である。

 

 今回ミュシャ展を見学したのは、ミュシャの作品自体に関心があったからではなく、女性像と「線」との共謀のごとき関係性に関心があり、今回の展示はそれについて考察するための格好の素材を提供していると判断したからである。展示を見終わって、この判断は正しかったと思う。件の関係性については今後丁寧に考察を進めるつもりだが、そのために考察すべき素材として、展示中に注目したいくつかの点を以下に記しておく。

 

 一点目は、オーウェン・ジョーンズ(Owen Jones, 1809-1874)による『装飾の文法』である[4]ミュシャのみならず当時の芸術家たちに広くインパクトを与えたらしいこの書物は1865年にロンドンで刊行されたが、今回はミュシャが参照したからだろうか、同年に翻訳・刊行された仏語版が展示されていた。いずれにせよこの本は「全世界の装飾様式を系統的に収録した書物(彩飾図録)として画期的なもの」だそうで[5]、展示中に開かれてあったページには、アラビア文字を配した曼荼羅風の図像が掲載されていた。展示した側の意図に沿っているかどうかは不明だが、私にはミュシャのデザインの根幹には常に曼荼羅があるように思われた。

 

 二点目は、生成する有機体のごときモチーフの数々であり、それは、どこが始点なのかを明かさぬまま一本の線が無限運動を繰り返すなかで現われて来たように見える形である。そのような模様ないしモチーフは、ミュシャ作品の至るところに指摘できるようだったが、最も象徴的な作品として『鏡によって無限に変化する装飾モティーフ』が挙げられる(写真参照)[6]。モチーフの創作に当たってミュシャが実際に鏡を使ったのか、そうであればどのように使用したのか等、あいにく詳細は不明ながら、「無限に変化する」ことへのミュシャの関心が明かされているようで、先に言及した曼荼羅との関係も含めて興味深く思われた。

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提供:小野純一

 三点目は、女性像が毛髪の表現を契機として周囲の装飾模様と一体化している点である。日常において毛髪は顔にとっての付属物か額縁のような位置づけだが、ミュシャ作品においてはしばしば植物や紫煙と一体化し、自律した生命体のようにうねっている。日常的な意味の比重が逆転し、毛髪にこそ一番太い輪郭線が与えられているのを見ると、脱中心的なエネルギーを感じずにはいられない。中心を希求する主題の在り方が男性的なのに対し、周辺に拡散する装飾の在り方が女性的であるとする見方はすでに一般的なものかもしれない。また、だからこそ1960-70年代の各地の対抗文化においてミュシャの図像が人気を得たのだろうという理解も、おそらくはすでにどこかで指摘されているだろう。結局のところ、ミュシャに先進的なものを見出しつつ価値の転倒を図ろうとするこうした態度は、大量消費社会の徒花としてあちらこちらで咲いているに違いないのだ。

 

 気を取り直して四点目は、先述の装飾模様に関して、文字との一体化が図られている点である。文字の装飾性が強められることで、文字と装飾と女性像とが混然一体となり、一種アナーキーな眩暈の場が成立しているように見えた。

 

 最後に五点目として、ミュシャ展において自ずと演出されていたように見える「女らしさ」がある。前提として美術展に足を運ぶのは概して女性が多いように思われるが、今回のミュシャ展では特に女性の観客が多いように見受けられた。一方で、展覧会図録はピンク地に金字をあしらい、「かわいらしさ」を強調した装丁になっていた。消費の餌として世の中に撒かれる「かわいらしさ」や「女らしさ」について思うとき、ミュシャの図像は確かにその規範の一つとして機能しているように思われる。19世紀末の象徴主義の文脈にミュシャが位置づけられるとして、そこで形成された女性像が少女漫画を含め、どのようにして日本の現代社会における美の規範の一つとなったのか、大いに検証の余地があるのではないだろうか。

 

                         (2019年9月27日 吹田映子)

 

 

[1] 会期は2019年7月13日から9月29日まで。展覧会HPは< https://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/19_mucha/>

[2] 国立新美術館HPより。<https://www.nact.jp/exhibition_special/2016/alfons-mucha/>

[3] 英語表記ではTimeless Muchaとなっており、そのまま訳すと「時代を越えるミュシャ」となる。どちらが先かは不明だが、英語版と比較した場合、日本語版における「みんなの」という語句の選択には、ミュシャの図像が発揮してきた大衆性を表現するというよりも、当の展覧会に観客を最大限動員したいという大衆迎合的態度の方が実際には透けて見える。

[4] Owen Jones, The Grammar of Ornament, London: Day and Son, 1856. 邦訳の最新版は以下。オーウェン・ジョーンズ[編著]、佐野敬彦・渡辺眞[解説]『世界装飾文様集成』全2巻、日本図書センター、2010年。

[5] 八田善穂「オーウェン・ジョーンズ『装飾の文法』について」、『徳山大学論叢』第49号、徳山大学経済学会、1998年、113頁。

[6] 1901年にパリのLibrairie centrale des Beaux-Artsから出版されたカラープレートのようだ。